DOGS
statement
[トポス]
会場である北信濃十三仏霊場第二番札所禅刹曹洞宗陽光山玄照寺は、道元禅師によって建立された永平寺を総本山とする禅寺であり、座禅などの修行を行うことで、悟りの境地を迎える「禅」を広め伝える道場を境内に持つ。元来寺とは、情報ターミナルのような位置づけを持ちながら、向こう側(聖・死と生・神、仏)とこちら側(現実生活)の境界にあるドアのような役目を持っていて、そこに立つ専門職の住職は向こう側への案内人であり、カウンセラーのように諸々の問題解決などの仕事を都度行ってきた筈だ。無論檀家の墓地の保守・管理や、葬祭事も行うけれども、時代の推移に呼応して、道場は、剣道・空手道場などに解放し、苗市などの催しをおこないながら、地域との連携を錯誤することで、柔軟に固有な寺の役割を変容させることは、観光地の象徴寺と固持する理由もないから、地域に機能する場を試みるのは当然だ。54年の短い人生を、理念の構築と実現に注いだ道元の、座禅によって釈迦に還れと唱え,理論よりも実践を重んじ,見性(けんしょう)を中心とした説法・言行は、「正法眼蔵」に残されているが、教祖道元の思弁的且つ自己内省的な、いわゆる禅の教えは、後に、自らの禅体験や仏教研究を基に、仏教(特に禅)を西洋へ伝えようとした鈴木大拙(1870ー1966:勉学と長年のアメリカ生活で身につけた英語で、仏典の英訳(欧米での)仏教の講演などを行い、さらには史上初の英文による仏教研究雑誌“ EASTERN BUDDHIST ”を創刊、自らも多くの論文を発表した。これらの活動を通して、多くの人々の仏教への関心を喚起すると共に、西洋と東洋との対話の場を開く基礎を築いた。大拙の思想は、心と体といったような一見相容れない二つのものが実は同一のものの両面であるという一元論的な立場に立っている。『金剛経』の研究から得た「即非の論理」は新たな同一性の論理を、日本宗教史の考察において提出された「日本的霊性」は二元を総合的に把握する立場を表したものである。その思索は、禅体験や仏教研究、そして親友西田幾多郎との相互の影響を通じて培われたものであった。 )によって、輸出されることになる。
こうした場所性(トポス)に於ける、今回のプロジェクトDOGSは、非オブジェクト指向であり、写真・映像といった虚構イメージを扱うという意味で、寺の意味性と照応して、新しい環境(理念)を提案することにもなる。映像の持つ「非在」「消滅の技法」(ジャン・ボードリアール)「虚像=イリュージョン」「写真や映像の記憶生成への働きかけ」(港千尋)といった性格が、「向こう側」への転送の場である寺(而も、同時に、眼差しの正当性を説くという意味の「正法眼蔵」に立脚し、反復の成熟による悟りを得る)の存在への、機能トリガーとなるようなインタラクションを、例えば、西欧のドーモなどに顕著に顕われるライトインフォメーション(ステンドグラスや金色のテキスト)と違ったアプローチで構築できれば、今後、大袈裟にいうと、寺の場所性や宗教自体のリアリティーなどは、一新するのではないか。(メモリーの投影イベントの常設、あるいは定期イベント化)
DOGS自体は、固有な9名の人間の眺めの断片併置にすぎない。そして、辛うじてこの選択された全体に言えることは、各々の作品の生成が鋭角的な自己表現ということではなく、ある種日々の生活反復に基づいて淡々と放射的に生成する記録表象を持ち、そこには固有な眼差しの質というより、現実が単に切り取られているだけということに尽きる。特別な9名を召集したわけではない。いかにも現代的な生き方の任意な併置にすぎない。
併置は、無関係、非関係であると断言できない網のようなコンテクストが、私にも社会自体、時代にも呪縛のようにあったし、今もまだある。この呪縛は、世界を関係性で捉えよという声にすぎないが、呪縛に縛られたままでいることに甘んじると、独我的な美の中で呪縛の真の意図である関係性の剥奪、喪失に苦悩する閉塞した環境を、むしろ指向するようになってしまう。
DOGSは、構想visual echoの、導入であるがゆえに、この閉塞環境を排除、破壊するためのユニットといってもいい。所謂美的である必要ない。固有な感情を強要するする物語性も嫌った。

参考文献:鈴木大拙/『禅思想史研究』『臨済の基本思想』 『金剛経の禅』『般若の哲学と宗教』 『浄土系思想論』 『仏教の大意』『無心ということ』 『日本的霊性』『禅と日本文化』

14,March.2004 Tetsuya Machida

[写真試論]_Visual
Echoのための

カメラが、社会的な道具として成熟期にあるのかどうかわからない。同じように、日常、写真や映像の力を、我々が十全に理解し享受しているとも言いがたい。確かな事は、レンズが残す画像と、人間の眺めは本来的には無関係であるということだ。眺めると言う経験能力は、身体的な生存に関わる能動性であり、流動的で差異に溢れ強弱があり衰えもする。けれども、写真画像というオブジェは、そういった生存の危急から要請されて生まれたのではなく演繹的に唐突に人間の傍に顕われた。物理的、光学的な仕掛けで対象の光の反射を捉え、フィルムの化学変化を促し、静止状態を凍結させ現象化させた二次元のイリュージョン(幻影)は、それまでの限りなく現実を真似る偽物という暗黙の了解自体が成熟した絵画とは全く異なった「今ここ」という現実性を帯びた一枚の平面に定着したことで、ダゲレオタイプ法 当初は妖術や悪夢に喩えられた。写真は、人間の網膜で捉え刻一刻と消滅していく不完全な認知対象世界に対して、徹底した完全さで一瞬を切断し、ぶっきらぼうなありのままの記録という時間的、即物的な意味で、都度新しい顕われのひとつとして多用されている。
レオナルド・ダ・ビンチ、フェルメールが描写補助として暗箱ーカメラオブスキャラ(CAMERA OBSCURA)を使用した、現象の直接定着の不可能だった世界は、現実そのものよりも人間の描く霊性が囲われ育まれていたのではと考えることもできる。だが、これは現代的な傾向で誤解した情緒でしかないし、目の前を記憶できない経験能力と写真は相互補完的な関係で記憶を想起させ、あるいは忘却を拭い去るというのも同様な短絡で、そもそも顕われ自体を捉える事ができない故の逃避認識にすぎない。彼ら創作者らも、写真という現象を、情緒的に捉えていたとは考えにくい。人間は、現実を眺めだけでは捉えているわけではなく、写真という顕われは、人間的であるところに立脚していないからだ。
空をゆく飛行機に視線が届きながら、そこに引き寄せられる。首を回して駅構内に侵入する電車車両を見遣る。美しい女性の後ろ姿を暫く見送る。等等。併し、これは日々の眺めであるが、眺めるという姿勢ではない。だから、我々はそうした力をなんとか構想実現したいと祈って様々な手法を考案し続けるのだろう。
写真自体を考える時、カメラの側からでもなく、プリントやフィルムの側からでもなく、人間の眺めるという能動性への契機もしくは導入とすると、眺めるという能力の発現に関わる有用な出来事であることに気づく。つまり、我々は、実に日々眺めていないことに同様に気がつくのだ。眺めとは、言葉に近付き、記憶に近付き、倫理を形成し、自覚を促す能力であるのだから、その眺めは、現実的であればあるほど、意識は多様に機能しはじめ、あるいは欲望もが頭を擡げる。
オブジェクトや、絵画などの、固有な現れは、眺めの対象と言うよりも一つの人間性の顕われであり、全人格的なひとつの人間がそこに示される。それに対して写真には、固有なアプローチの差異に満ちているが、目の前を捉えるカメラによる、現実への依存であるから、顕われる画像は、世界にむかって開かれている。
ただ、カメラを持つ者の、固有な歩み寄りとシャッターをきる反復が、オリジナルティーを形成し、彼の反復が織り成す画像が、独特な眺めの質を提供することになる。そこに眼差しを真っすぐに向けることは、彼の抱える闇をも抱き込むことになる。
オペラ・悲劇・などの構築に真似て、音響を加え、こうした彼らの画像を、脈絡なく、併置してみると、画像は、新しく無関係を誇るようにして、均一な距離をとったまま、清潔に眺めの対象に落ち着くことがわかった。そしてさらに驚くべきことは、写真画像の意味性や、画像に残るエゴが、併置によって、戒められ、その時々の我々の気分や、経験に応じた、率直な眺める意識が降りてくるということだ。
だから、この併置には、テーマや、トータルな意味での包括的なビジョンは必要ない。ただ、清潔に、無関係に併置することが、われわれのできることとなる。

シュルツ(独)(1677年-1744年)Johann
Heinrich Schulze
硝酸銀の感光性を発見 物質によって光線が当たると色が変わることは知られていた。シュルツは硝酸銀の感光性を発見した。 (ヨハン・ハインリッヒ・シュルツェ)
1826/ニエプス(Joseph Nicephore Niepce 仏)がヘリオグラフ(Heliograph, アスファルト写真)を発表。 現存する最古の写真はニエプス(Niepce)のアスファルト写真。1枚の撮影に6−8時間の露光が必要だった。ヘリオグラフ(太陽の描く絵)と命名。
1839/ダゲール(Jacque Louis Daguerre 仏)のダゲレオタイプ法(Daguerreotype)が公表された。沃化銀(感光材料)水銀蒸気(現像)食塩水で定着。 ダゲレオタイプは、銀板写真と言われるもの。銀メッキをした金属板の上にポジ画像を定着。露光時間は10−20分。その後改良され、露光時間は1分以下になった。銀メッキをした金属板への直接記録のため左右が逆の像となる。フランス政府はこの発明を買い上げ、公開した。このためダゲレオタイプは広く普及した。
1841年 タルボット(William Henry Fox Talbot英)がカロタイプ(Calotype, 感光紙を使ったネガ−ポジ法)を発表。撮影時の露光時間は晴天の屋外で1分程度。 初めてのネガ−ポジ法考案。紙ネガ写真を紙ポジ画像に反転。ダゲールより早く(1835年に)写真を発明したと主張したが、技法を秘密にしたため認められず。このため、更に感度を大幅にアップ等、改良してカロタイプとして発表。ダゲレオタイプは1枚しか画像が得られないがカロタイプは複数のコピーを作ることが出来た。
28,April.2004
Tetsuya Machida